2013年3月29日金曜日

脱け殻の味



26日は大学の卒業式だった。

実感が湧くとか湧かないとか、どちらでもいいのです。ただ、この時間に居るので、それでいい。


何かをやり切ったとかドンチャン騒ぎはしなかったけれど、淡々と楽しんだ、苦しんだ。へこたれては「私はマイナスの世界に生きるタイプなのかしら」と考えたり、ふと笑う自分をガラス越しに見て「やっぱり笑顔が似合う人間に成りうるのかしら」と謎めいた。

浮遊して泳いで時間を過ごした。

だから『この四年間、』なんて言葉で落ち着かせたくない。いまの呼吸は明日の空気。

自分でさえ溺れる起伏の激しい感情持ち、沢山の人達に色んな想いをさせている。傷つけたり、穏やかさを感じてもらったり、怒らせたり、涙させたり。

思わぬひどいこと、本当にごめんなさい。それでもそうじゃなくても、本当にありがとう。

ツンケンしたこの性分を反省しております。



本当はこれからのこと、不安で仕方ない。死ななきゃいいと思っているけど、そんなんじゃない。

だから旅に出る、そのつもりで生きていきます。

そしたら楽しいよ、脱皮作業。脱け殻はそうだな、唐揚げにしようね。

2013年3月21日木曜日

さわりたーい



器を作るようにようになってからここ最近、「触れたい欲求」が増している。

というのも私が作る器は、竃もロクロもない家での制作になるので自分で工夫して成形する必要がある。手になじむ程好い厚みが好みなので、生乾きの状態で彫刻刀やカッター、爪楊枝などを駆使して手をぷるぷるさせながら懸命にカタチ作る。


そんな器作りに没頭していたある日、遂に町を歩くだけでその風景が「彫刻作業」に見えるようになった。


アニメーションみたいに巨大な手が現れて、目前のジオラマ化した町並みを彫刻セットで造りあげていくのだ。(本当に見えてる訳ではない。ただ、リアルな妄想が出来るようになった)。例えば、斜めに立つ石壁を「平刀でワシワシ削ってるなぁ」とか、アップダウンのある滑らかな道は「せっせとヤスリかけては、感触を確かめ嬉しそうにしている」とか、そんな手の作業。



こんな風に、ふとした瞬間「感触の感覚」が押し寄せるようになったので「触れたい欲求」が増したわけなのだ。最近なら「木蓮のツボミ」。ふぁっさふぁさの毛が渋みのある黄緑色を膨らませて、ぼわんっと花を咲かせる。あのふぁさふぁさが、いい。触りたくなる。


高校生のとき、買ったばかりの桃をよーく見ていたら表面にふさふさ毛があることに気づき思わず頬にスリスリしてみたが、あれは失敗だった。チクチクが刺さってかなり痛かった。


あとは、砧公園の入口に立つ白い樹や、お稲荷さんの狐、刺繍の裏側、バスの座席のコクコクした布、雑巾臭そうだけど目があう犬、じいちゃんの墓石、男の子のプール帽からチクチクでた髪の毛・・・など、たくさんある。


でも今一番触ってみたいのは、舟越保武さんの彫刻。名前は忘れたけれど、女性の頭部の作品で、そのあまりにも崇高な表情が見ているだけでは辛くって、手を伸ばして許しを請いたくなった。もっとベタベタ触れたらいいのになぁ、美術館め。

2013年3月15日金曜日

あぁ物欲の、切なきことよ




昨日は友人と卒業式に着る服を見に、お銀座へ。
せっかくなので、なにか、永く着られるものを。

幼少期から、服を買ってもらう時は安くてそれっぽい物を選ぶと祖母なんかは「あんたは服選びが上手ねぇ」なんて煽ててくれるもんだから、私はすっかりその気になって庶民派店内をズンズン歩き回った。

そのクセが貧乏美大生になると開花した。
ライトが眩しいお店は苦手、近所の埃っぽい古着屋やリサイクルショップが丁度いい。そして目があったアレコレを愛でる、持ち帰る、あぁかわい。少し古びた雰囲気の誰ぞ知らぬ形跡を感じ、よくぞこの手元に来てくれた!と想う。

そんな育ちだもんで、銀座のデパートはちょっとした覚悟がいる。
ノリの効いた新品たちは誇らしげに定位置に佇んでいる。「私が、服を選ぶ」のではなく「服が、私を選んでいる」そんな視線、キョーレツ。


でも今回は一人じゃないので、気持ちに少し余裕があった。仲間数で勝負というわけ。憧れのブランド服(mina)をここぞとばかり試着したが、いつぞ着られるか解らぬ高額に肩を落として店を出た(基本的に3千円以上の物は高額という見解なので桁が違った、覚悟はしてたけど)。

あぁ、なんて切ないのでしょう。手に入るか分からない、物を欲する強い想いは幼心にツーンとくる。小さい頃、弟がスーパーのお菓子売り場を舞台に泣きじゃくってダダをこねていた心情を想う(彼が切ない想いをしたのはラムネ付きポケモン指人形)。


それにしても本物っていい。袖を通してみて改めてその価値を感じた。創り手の想いがポーン!と形になった物は全部、本物だと思う。テマヒマかけたかどうかではなく、原価が安くても高くても表情のあるもの。そういった点で、古びた物は「人慣れ」しているというか、「まぁ選ぶんなら選びなよ。俺はあんたん家行ってもいいよ、ただ陽のあたる所に置いてくれよな」みたいな顔をして話しかけてくる。


そんな物創りをしたいと思いつつ、ショップで頂いたISSEI MIYAKEのお煎餅を眺めて、果て卒業式はどないしましょうと頭を悩ませている。

2013年3月13日水曜日

ごあいさつ





ホームページが出来ました。

ホームページとウェブページの違いも解らないアナログ人間です。
調べてみたら、一番易しい解答がありました。「スイーツとデザートの違い」だそうです、とても判りやすい。

ついでにブログも始めてみた。
情報過多だの、物の価値だの云ってSNSから距離おいてるつもりでいたけど、そうでもなかった。

共感してもらえるって、やっぱり嬉しいもの。応えがあれば質問も果てない、その逆も。お陰さまで超機械音痴の私でもホームページが作れちゃった訳でございます。
つまり、すっかり先進国の一員なのです。生まれたときからそうだった。


外では多くの人が手元の小さくて広い世界を、懸命に、しかしボンヤリと覗き込んで歩いている。そんな景色を見ると「猫村さん」で人気の、ほしよりこさん著「たろちゃん」という漫画がコチョコチョと心をつつく。


四歳のたろちゃんは「ネット」が欲しい。つられてアナログ人間のお父さんとお母さんも「ネット」が気になり始める。

(以下ブログについて父の見解)「その日記のことなんとかっつーらしいんだけどな、日記てのは机の引き出しん中しまって人には絶対読まれたくない訳じゃん?
それを大人が人に読まれるために書くってんだからよ、なんつーか、大人が恥らわねぇ世の中になったもんだぜ」


ドキリ ギクリ キラリ

とても大変な作業なのだ、人と会う事は。

だって言葉が追いつかないことが沢山ある。

だから、紙面やこの画面の中で時間をかけて言葉を選ぶ(練習をする)ことは、とても重要だと思うのです。手紙ならば相手の、日記ならば自分の、いま本当に欲している言葉(感覚)を抜粋してあげる。それは人に触れることで身についた、心情の傷や治癒力がないと出来ないこと。それって恥じらう事ではない。

それでも、こうして脱アナログ人間することに後ろめたさを感じるのは、お家でゴロゴロしていたい怠け心が、ダダをこねているからなのです。


だから私は気まぐれに、真剣に、言葉を綴っていきます。よろしくどうぞ。(むしろ恥をさらすくらいが、私には丁度いーい。)