2015年2月20日金曜日

部屋が鳴る


年明け。二世帯住宅の親戚の家で祝酒を交わし ひと賑わいすると、じーちゃんが居た一階の部屋へ とぼとぼ 降りて行った。どうしても一人になりたくなるのだ。考え事をしたくなるのだ。整理された 死んだじーちゃんの部屋のベッドに ボムッと身を投げる。

二階で皆と一緒に過ごしている ばぁちゃんは、今は施設暮らしなので、ここ一年くらい 人の気配はあまりなかったと思われる一階。

ベッドへ身投げし、ふ〜ぅ…。と溜息をつくと、この一間が静かすぎるのに気がついた。部屋中が 音をすっかり吸い取ってしまい、まるで真空状態だ。床も壁も天井も内側に向けて窮屈に鳴いているようだった。

不思議な気分。耳鳴りがする。常に 音で溢れる土地に 身を置いていることや、閑静な夜路も 足を止めずに歩いているのだと気づかされた。〈静寂〉とはこれかぁ と思いつつ、隣にじーちゃん来てたかも。とも思う。

いま悩みごとがある。一人でゆっくり考えたい。考えるのは、自分でも気付かぬうちに だいたい決めている応え を確認するため。隣にじーちゃんが居てくれたら ヒントをくれるかも とも思う。

仕事中も電車でも 思い詰めて 苛立たしくなるが、みっともないので抑える。それの繰り返し。あの部屋と一緒。苛立ちが 頭の中で窮屈そうに 鳴いている。殺気立つというか…そういう静けさってすごい力だ。

2015年2月16日月曜日

テレポートできる



窓を開けておくのが好き。
どんなに寒くても 空気を入れたがる。

夜の帰路、風が吹くと 本当に顔がピリピリと痛む。だけど、王蟲がナウシカを包んだように「風が触れてるなぁ」と思うと官能的でさえある。すごく安心感がある。ぜひやってみて下さい。

風は本当に様々な記憶と結びつく。そういう存在と知ってから、ますます「感度」をあげるよう努めている。2年前、山奥で働いた土地を離れるとき。土やその周辺を 都会でも思い出せるようにと、一番好きな場所で全神経を集中させた。だから都心に居ても目を閉じれば神経はテレポートできる。細部ではなく全体に戻れる。


今週、修繕工事で 我が家はマンション丸ごと網の中に入る。窓をあけても騒音やペンキの匂いが流れ込むばかりになるのだ。残念だけど、こればっかりは仕方あるまぁ。工事の間はできるだけ外へ行き、好きな土地を増やそう。

2015年2月4日水曜日

チマチマつなげて一人



なんだか 落ち着かない。

後藤健二さんの、伝えようとしていた姿勢 を知って「わたし 自分の内側から外に向かうこと怠っているな」と思った。チマチマ発して チマチマ反応があって。それで嬉しいけど、その筈だけど、このピンとこない感じは そうじゃないってことだ。

身体中、怒りと哀の粒子が走りまわる〈チマチマ〉ゆえ〈チマチマ〉する。人の所為にする、自分の所為にする。それは違うってこと、そういうことを考える 大事な時間を、気がつくとカットしている。「のびのび生きるんだ、難しいことは忘れて良し。」と思っている怠け者

大声で世の中に物申すより、近くのひとをツンツンつついて〈ねぇ こんなのあるよ。こうすると君に似合うね。でもこうすると変だね〉〈へ?僕これ似合うの?あらそう?こうすると そうだな、こっちは君に似合うみたい。〉という…そんな、小さくても刺激性のある〈作用〉でありたい。

後藤さんだってチマチマを長く繋げて出来た一人。殺害を実行したイスラム国の人間だって、正しいと思ったチマチマを繋げて出来た今の一人なんだ。そう考えると私のチマチマ真義は揺らぐ。個人とは なんと怖いものだろう。それでも この子らがたくさん泳いで届くように、流れをつくらねば 。じいちゃんが死んだ時もそうだったけれど、亡くしてから気づかされる事は沢山ある。

薬と一緒。私が〈作用〉する人や物事は 全てじゃない。大半が互いにハズレくじ。じゃぁ生きてる間によ、できるだけ作用する人を見極めてくじを引いてもらおう、引かせてもらおう。

イスラム国は憎しみを原動力にして 一体どんなところに腰をおろすのだろう。赤信号を手繋ぎで渡るグループは無理でも、銃やナイフを突きつけてくる〈個人〉になら 命をかけてようやく一つ、なにか遺せる気もする。書きつつ「命がけ」には賛成出来ないな とも思う。仲間・繋がりの包容力って善悪の紙一重なんだなぁ。